サイダーと柿の種

タイトルは、子供時代の郷愁。

書きたいことはあるのになぁと思いながら、結局書きたいことがわからなくなるの繰り返し。

 

先日、薄い半月状の西瓜を買った。

果実部分だけカットしてパックされたものを昨年買うまで、何十年も西瓜を買うことは無かった。

西瓜があんまり好きじゃなかったのだ。

実家にいる頃は食べていたけれど、ひとりで暮らすようになったら敢えて買いたいと思うことは無かった。

でもなんか美味しそうと思うようになったので、今年は皮付きのを買ってみた。

40年も前に食べていたものに比べたら、皮付近まで甘い。

今年みたいに暑い夏には、水分補給に大変良さそう。

皮付近の白い部分も随分少なくなったんだね。

 

先日大家さんが訪ねてきて、階下でねずみが出たので調査に入るというので、昨年のエアコンが壊れた事件以来のやる気を出して、人が入れるほどに部屋を片付けた。

在宅勤務を良い事に、仕事もせずに片付けた。

それなのに、その日は玄関先で話が済んで、また後日施工に来ますという事になった。

なんだよもー。早く来てくれないとまた散らかっちゃう。

っていうかさ、2月頃にさ、大家さんにねずみ出るっていったじゃんねー。あの時けんもほろろに「そんなことないわよー」とか言って何もしなかったじゃんよーと思う。

あの時は室内には入られた形跡が無かったが、今回は置き土産があったので入られていた模様。

階下の人が仕留めたらしいけど。

 

最近時々見に行くブログの方が、私が永年やりたいと思っている事を始めたと書いていた。

同じような年頃の方なので、そうだなぁ私もやる気をださなければと思った。

ここ数年は死別もあって完全に何も考えないような状態で、休日も海外ドラマの沼とか少し前のドラマの一挙放送とかに嵌まっていた。

でも考えてみるまでもなく、もう老前短いのにこんなに無駄に過ごして良いんだろうかという気がしてきた。

若い頃は一日にたくさんの事が出来た。でも、結局全部男絡みで自分を見失って来た。

今でも一番の原因の男の事だけは絶対許さないし、自分の命と引換えでも死ねばいいと思っている。

まぁそれも無駄な感情だとは解っているんだけど。

他人の所為ではあるけど、立て直すのは自分しかいない。そろそろちゃんとします。

 

このブログは、ほとんど誰も見に来ない。

はてなブログがどういう仕様かわからないが、以前やっていたブログでは少なくとも何人かは見に来ていたけど、ここは全然見に来る人がいない。

20年くらい前のネット社会がもう少し穏やかだった頃も、似たような誰でも作れる日記メインのホームページサービスがあった。

それは小学生や中学生も作っていて、交流もわりと盛んだった。

盛んだった故に炎上もあって、炎上すると同じ人が名前を変えてホームページを作り直したりという事がよくあった。

その頃、佐世保で小学生が同級生を殺す事件があった。

加害者はそういう簡単にできるWebサイトを作って同級生と交流していた事が、犯行を助長させたようだった。

その当時、そういう事もあるだろうなぁ。まだ発達途中の子供だったらと思った。

のちに加害者は発達障害と診断されたのだったと思う。

 

自分も、今なら発達障害の疑いを指摘されただろうなと思うような子供だった。

そういう自分が思うのは、もう還暦になったとしても、今になって気がつくことはたくさんある。

あの時誰かに言った言葉は、大変不適切だったのだ。あの時の行動は非常識だったのだ。

それを何十年も経って理解する。

そういう脳なのだ。

だけど、今はある程度療育も進んでいるのだろうから、なんていうかね、積極的に理解させる事をして欲しいと思う。

10歳で理解するような人間関係を、私のような人は60年掛けてやっと理解したりする。

普通の子供が一度で習得できる事を、私のような人は数十回経験してやっと理解する。

そういう人もいると言うことだ。

ネット上でネバダたんと呼ばれた彼女は、今、ちゃんと理解出来て生きているだろうか。

自分がやった事の重さも。

 

今日も、もう夕暮れ。

今日は降ったり晴れたり曇ったり。冷蔵庫に食べられるものが無くなったので買い物にいかないと。

 

今年も夏のラジオ体操始めました。

最近はラジオ体操の聞き逃し配信があるので、6時半に起きれない時はそれを聴きながら。

体操カードは、今年も郵便局に貰いにいけなかった。

窓口で毎回「えっ?」って顔されるので行きづらくなったし。孫が使うんでーとか言えば良いかのぅ。