春の心はのどけからまし

関東の桜は終わって、これからは八重の桜の時期。

盛大に散った桜は寂しいが、この雨で最後か、この風で最後かとハラハラする事は無くなる。

こんな気持は昔の人も持ったわけで

 

世の中にたえて桜のなかりせば 春の心はのどけからまし

 

在原業平も詠んだのだ。

 

また来年。

盛大な花を見れると良いな。

 

正直、人がいつ死ぬかなんて分からない。

来年の桜を観る事が出来るかも、誰にもわからない。

 

最近、家族を殺すような事件をよく聞く。

折角産んで育てた子供に殺される親。

少子化の今なのに、これじゃあ子供を生みたいと思う人もどんどん減りそう。

 

三月は後半怒涛の嫌なこと続きで、お蔭でストレスで本来やるべき事がすっぽりと抜けてしまったりと、金銭的にもダメージが大きかった。

あとから後悔してもどうにもならず、もうこれを教訓にするしかないと諦めて、少し憑き物が落ちた感じ。

私は私。

もう自分の事だけ考えよう。

 

まずは、荒れ果てた部屋をなんとかしないと。

春爛漫

東京の桜も満開。

昨日は所要で神保町辺りに行ったので、ついでに千鳥ヶ淵の桜を観に行った。

昼過ぎだったが、結構な人出だった。

日本人は桜が好きだな。

 

震災で犠牲者が出た九段会館も、まだ取り壊されずに建っていた。

 

20代の頃、千鳥ヶ淵で会社の花見をした。

今は出来ないみたいだが、当時は場所取りが出来た。

今みたいにライトアップも無く、提灯のような物も無かったように思う。

薄暗い千鳥ヶ淵で、夜桜を観る。

あれもまた良き想い出。今となれば。

 

人生なんて意外と短いとつくづく思う。

何かを成し遂げられる人なんて少ない。

女性の多くは、子供を産んで育て上げる事で、何かを成し遂げた事になるのだろう。

独身者はそれもない。

 

桜の季節は、明るい分少し寂しい。

彼岸に雪。

 

雪の降るのが見たくて、窓を開けてストーブを点けている。

 

昨夜は職場の飲み会。

正規雇用では無いので、そういう飲み会には行かないつもりだったが、行ってみていろいろと思うこともあった。

まぁ、もう行かないかもな。

気を使わせるし。

 

若い人を見ていると、若干失った若さを想い出して寂しくなる。

自分が若さを謳歌したり、やりきった物が無く歳をとったからなのだろうが。

これからの人とか、それなりにやりきった同年代とかの中にいると卑屈な気持ちになってしまい、それが嫌になる。

昨日は二次会に行くであろう人々より先に帰る人に便乗して、早めに場を離れ、独りでベローチェで珈琲を飲んでから帰った。

オフィス街にあるベローチェは、私にとっては憩い。

スタバとかもっと小洒落たカフェとかより。

 

さて明日も仕事。

私は私のやるべき事をするまで。

安い時給でなにおばさん頑張ってるの?と思う若い人にはそう思わせておけば良いし。

自分は自分で淡淡とやりたいように仕事をしましょう。

 

今日が雪で良かった。

今日がピカピカの晴天だったら、少し落ち込んだかも知れない。

弥生

三月も半ば。

肋骨を複数本骨折する事故から、一年が経とうとしている。

長かったような短かったような一年。

骨折箇所は、未だに痛い。

仕事は骨折前に働いていた職場に戻った。

骨折の所為で一年近くだらりとしていたので、仕事を始めるといろいろ戸惑いはあった。

予想外に仕事のカンが戻らず、自分にもイライラしたり、同じ職場でも別の部署になったので、仕事量も増えて痛みが無くなっていた肋骨の痛みもぶり返したし。

 

今年は三月になって暖かい日が多く、もう桜も咲きそうだ。

桜の季節に折った肋骨。

これからはこの時期になると肋骨を想うのであろう。

 

本を読む

就学前には、そこそこの漢字も読めるようになった。

実家は貧乏で、子供が読むような本を、そうたくさんは買ってもらえなかった。

あまり高額では無いトッパンの絵本が数冊あったり、姉の持っている名作系の本がある以外は、大人の本しか無かった。

最初は覚えたてのひらがなで、大人の本のひらがな部分だけを読み、そのうち推測しながら漢字を覚えた。

その頃、間違った推測で覚えた漢字は、未だに読み方を間違えそうになったりする。

文字を覚えてとにかく文字が読みたくて、何でもかんでも、薬の箱の成分表やら、取扱説明書まで、隅々と読んだ。

そのうち話し言葉が、頭の中で文字として浮かんでくるようになった。

自分の話す言葉が、頭の中で文字になってずっと流れて来るのが煩わしかった。

 

そんな子供であったが、いつしかそんなに文字を欲しないようになった。

 

最近テレビで芦田愛菜ちゃんが、文字という文字は全部読んでしまうというような事を言っていて、あー私もそうだったなぁと想い出した。

 

子供の頃に、自分も子供の読むお話を書いてみたいと思ったのは、姉が学校の図書室から借りてきた『ちいさなモモちゃん」を読んでからだった。

若い頃は随分文章も書いて、本気で児童文学の書き手になりたかったが、そううまくいくわけもなく、そのうち生活に追われ色々とあって全く書くこともなくなった。

 

『ちいさなモモちゃん』を読んだ子供の頃、読みたい本が無ければ自分で書けば良いのだと思ったものだ。

 

今なら、私の読みたい本を書けるだろうか。

冬季五輪

私が田舎の小学生だった頃、札幌で冬季五輪があった。

テレビに釘付けで、笠谷のジャンプを観たものだ。

もう半世紀近く前の事。

人の人生とは、案外短い。

 

ずーっと何となく体調の悪いまま人生を送ってきた。

自分でも本当に溌剌とした子供だった時代は、せいぜい10歳くらいまでだと思う。

あとは常に身体が怠く、いつも疲れている子供だった。

更に毎月の腹痛週間が小学生から訪れたので、元気いっぱいスポーツなんて事は考えることすらしなかった。

 

今は月々の腹痛週間が無くなっただけで、楽にはなったなぁ。

 

くちびるや爪が真っ青になるほどの貧血状態と痛みで、一歩も動けなくなり道端でしゃがみこんでしまう時も度々あった。

 

そんなにまでしての生殖機能だけれど、私は本来の機能を果たさず終わってしまった。

 

別にそれはそれで後悔も然程していないが、世の中は結婚もせず子供も残さなかった女性には本当に冷たいものだ。

それも男性からより女性から。

察かに、結婚もせず仕事で出世もせず、子供も持たずという独身女性は女性のヒエラルキーの一番下だ。

たとえ生活保護のシングルマザーでも、独身女性よりは共感される。

そういう国に生まれたら、やはり一度は結婚すべきだったんだろうな。

形だけでも。